昭和40年9月3日 夜の御理解


 (  ?  )休まれると必ず風邪を引きますよと、もう、と言われよったんですけれども、私はもう、廊下の前に布団を持って、あそこで休んだ、ほうが涼しいんですけれども、夜中はやっぱ冷えすぎたんでしょうね、風邪引いてしまった。私が一人風邪を引きましたら最近ここ二、三日父が大変風邪を引いているそうです。また、これは誰かに移って行くかもしれないです。移って、直らないものはどんどん移っていく。はびこむ。ね。信心でもそうです。ここで本当に信心を頂かなければならんと思うてここで信心の稽古に通うてくる。また、ここで修行をしておる。いうならば、先生の信心のどこから、ああいうようなものが生まれてくるかという事を皆さんが見たり聞いたりして下さって、私のあーここが私のおかげを頂く所だという事が分かったら、そこを皆さんのものにして頂かなければいけんのだけれども、なかなか、それがなかなか出来ん。けれども、私の悪い癖は、皆さんがすぐに覚えてしまう。どうも、椛目の信者はだらしがない。私の欠点であるだらしのないところがすぐ、皆に移ってしまう。良い所を移らずに、すぐ、移っている。これは、よその教会あたりであの、お説教なんか頂きます時に( ? )一人が崩しだすと皆も崩してから、前にだしてたり後、横に出したりしてからその、お話を頂いておるといったような教会も、沢山ある。その点から椛目はだいたい行儀がよいですね。けれども、ここに一人行儀の悪いものがおってごらんなさい。必ず、それでみなろうて、あげんでよかずばいのとごたる風になってくる。だから、私はお広前で足を崩した人がおったら、私は注意する。ここに、座るとが修行。それを修行しなければでけん。というて私がいう。

 例えば、布団を引きますときでも、空けた押入れの中がもう乱雑にしておってみなさい、そんなもん、自分だけなら良いでしょうが人が開けてみてごらんなさい。どうしたら、ここは、表だけはこげんして立派にしておってから、そうしてあるごたるけれども、中はひちゃかちゃ。もう本当に中こそです、もうそれこそ、私兵隊にまいりましてから、毛布やら、布団やらたたむ時にきちっと節度のあるたたみ方、もうきちっとこの糸を重ねたように置かなければならなかったのですけれども、ね、それまでせんにしても、きちっとね、その(?)ぐらい私はたたむ習慣。私は目に見えないところほど、きちっとする所ぐらいの信心はお互い形の事ですけれども、一つ頂かなきゃいけんと思う。ね。

 ろくそなか、もうろくそなか、そげなんところはすぐ移るもん。ね。これは、不思議なんです。一人が居眠りばしよんなさってごらんなさい、居眠りがすぐ移るですから隣に。自分が眠って成らんはずの自分が眠る。十分休ませて頂いておって、はあー昨夜は(?)遅かった、というならです、ね、ほんに眠いであろう、眠っておる姿が尊いまでに見えるけれども、十分寝るしこ眠おってから、ね、肝心要の信心のお話の時に眠るなんてんそげなんこつがあるもんか。ここは、もう堕落しておる証拠なんです。ね。それはその人一人ならよかばってん、ね、それが、みんなに移る。ね、皆さんが、ご承知だろうと思いますけれども、私は本当にきちっとせな好かんと。ここここうなっとっただけで私はお取次が出来んです。ね。ですから皆さんがそういうような、例えばここで修行しておられるなら、先生方、修行生の方達がです、自分達の机の上にね、灰皿がまあ汚れておる、横にいっぱい灰が落ちとる。座布団はこげんなったり、こげんなったりしておる。(  ?  )いいけれども、新しく参って来たものがびっくりする。ね、だから、それが、皆が後からのものがもう、こげなろくそなか事でよかじゃろうと言うことになる。私ここの御結界の机の上はきちっと大事にするように、皆さんの机の上はなら、まあいわゆる、きちっとお届けしてごらんなさい。来ただけでも、それを見ただけでもみなさんおかげを頂きますよ。

 硯に水が入っておらん、お初穂袋は横でん縦でんなっとる、ね、机の上は(?)おさい銭箱は真っ白になっとる。そういう、例えばここで修行をなさっておられる方達は、かかっておるわけなのだから、ね、それが慣れてしもうて慣れっこになってしもうて、例えばみなさんなら、秋永さんがここで修行をさしてもらいよる。(  ?  )ね、というようなことにでもなってごらん、よかところはもってかえらなん、ただ(?)だけがついてかえったという事になったら、ね、なるほど、晩が遅い、朝が早い。眠うしてたまらん、けれども、それが修行。ね。それでも、やはり、ちょっとでも休ませて頂きゃいいから節度をもって、させて頂けと。午後からここで奉仕させて頂いておって、だーれも、三人も四人もおってからおらん。ね。おらんだっちゃ誰もおらん。とうとう御結界を立ってから二階におらびにいかないかん。ね。そういうようなことでは私本当の信心は形のことですけれども出来ない。ね。例えて言うならば、ね、善導寺あたりでの、(  ?  )私は形はどうでもいいと思うのですけれどもです、ね、それこそ、ね、あの(?)が光輝きしとる。必ず、おそうしておる者は日に一遍とか二偏とか決まっておるものじゃない。ね。

 もうそれこそ、どげんところにご飯粒がおちとったっちゃ、拾うたっちゃ(?)ごときれいにしてある。ね。椛目に修行させて頂いてこれだけは、自分のものになった、これだけは、こげな習慣だけはついた。ね、もちっとね、私が思うのに節度のある修行体制に入らなければならないと思う。これは、ここで修行しておる人だけのことではありません。一時が万事、私の不注意が風邪をひいた。それが、老体の父がそれが風邪が移った。またそれが誰にでも移る。たった一人の不注意がです、ね、雑草的なものは、すぐはびこって行く。ね。御理解頂く時でも眠らなんならんごと思うておる。ね。しゃっちが御理解が生き生きとしてから、その中に現れていない。信心生活の上に。(?)聞きよらんけん分かるはずがなか。ね。聞いただけでも同じ事。それを行じなければ。私は、いっておるのですけれども、ろくそなか人は絶対頂ききらんと思います。本当のおかげは。ね。内伝でも入るときにはね、ジーンとなんかしらんけれども、ジーンとするくらいのものを感じなければ、おかげにはなりません。お掃除をするのに、(?)気持でお掃除をする。そげなことなったらもう神様は、ありがたくもなからなければ、恐くもなくなってくる。

 なるほど、私は神前の、神饌物お供えを下げるでもです、ちょっと( ? )もし真似したら大変なんです。ね、私共神様から覆面をする事すら差し止められとるとじゃん。あー先生がこうしちゃるけん、私共もそれでよかじゃろうかという事になったらおおごと。あんまりならだらしゅうなってから。これだけ先生先生ちいうてから、心ではいわば( ? )。そげなことではおかげは受けられんです。それが、ね、その人、一人で二人ですめばいい。必ずそれが移るて、円満するて。ね。そういう形のことがしだこだに成っていきよるとです、肝心要の信心がしだこだになってくるです。ね。もちらんだからおかげもしだこだになってくる事には間違いないです。もう少し、私は信心の稽古場といや、( ? )有り難うならせて頂く場でもある。そのあり難くならせてもらう場が、普通の住まいの家よりも、入り口が散かっておったり、てんで机の上は、てんでこう乱雑に散らかしておったり、ゴミが乱雑にしておったり、そういうことでどうやって心が磨かれるはずがないじゃないか。ね。形のことだけではない、内外ともに心の上においても、いわばお広前だけではない、押入れの中でも同じ事。いつも(?)わからん事しておる、(  ?  )さあなんか探そうというたっちゃ分かるものじゃなか。

 そういうようなですろくそかこつやらをすぐ(  ?  )信者一同にはびこむ。総代さんやら、先生方やら、ここで修行やらさせて頂きよる人たちやらその事だけに専念しておる。総代さんでも、総代さんだってすらあれだけ行儀ようしておられるのだから、と、みんなが右にならえをする。ね、なかなか右へならえをするというか、いうことなかなか出来んのだけれども、ね、それを育てて行く事に信心があるのだから、これだけの御ひれいを頂いておるところだから、何か私のどこかに、神様が感応ましませてあるのですから、先生の所に、神様が( ? )追求してそれが分かったら、自分の者にしてそれを育てて行くことに務めていかなければいけないと同時に、ね、育てようとせんでも自分に自ずと乱れてくるのがろくそなか。ね。実意丁寧が足りんのじゃ。神様を軽うみておるのじゃ。実意丁寧にない人は神様を軽うみておる人に間違いない。

 ね。何事にも実意丁寧になってごらん。立たせて頂く時も座布団をきちっとこうして真直ぐにせな立たれん。いうならお礼をいうて立たななれん。ね、言わんからというてから、もう本当に驚くばっかりにろくそなか、最近はなっておる。お説教台の上にはエプロンが置いちゃる。ね、買い物かごがおいちゃる。ね、下駄は乱れ放題。ね、本当にきちっとしたというところがない。はあーここの先生がだらしなか証拠と。みんなはそういう風に言うに違いないと思うけれども、ね、ただ今私が申します私の不注意がです、風邪をひいた。それが、誰彼に移っていく、ね、お互いはそこのところにです、自分のそげな、例えばおかげの受けられんごたる、ものをもっておるものがです、ろくそなかためにほかのものまでもおかげを落とさせるような、そういうことに巻き込んでいくようなことがないようなです、信心をさせてもらわないけんと思うですね。      
                           おかげを頂かねばなりません。